・「再会の街で」(思い切りネタバレ...これから観る人は読まないほうがいい。)
 観終わった時の、自分内第一声は、”マジ過ぎる...”だったと思う。。。
 いい話なのだ。こんないい話だと先に知っていたら、選ばなかったかも知れない。
 けっして、そういうところがよくないと思ったわけでなく、好きじゃないわけでもなく、
 ただ、これを真剣に観てしまったこの自分が、そしてこれを自分が選んだのが、
 なんだかマジ過ぎる、と思ってしまっただけ。
 
 歯科医のアランは、収入もあり、妻と子どもと穏やかな家庭生活を送っているようだが、
 妻とも職場の同僚とも、うまく交流がもてていなく、すっきりしない毎日。
 そんな中、かつての同級生で、歯科医であったはずの、チャーリーと出会う。
 チャーリーは、9.11事件で妻と子を失くした後は、仕事をせず、身なりも構わず、
 家では大画面でゲームに熱中、ペンキ塗りをしたり、いつもヘッドフォンでロックばかり流している。
 一見、自由で気ままな、子どものような生活を楽しんでいるようでいて
 自分のことを全く話さないチャーリーのことが気になり出すアラン、
 そして、家族と暮らしていた時のことを知らない(話さなくていい)、人のいいアランを
 唯一の友だちとして、心を開かないまでも慕うチャーリー。
 
 アランは、チャーリーをなんとか歯科医としての普通の生活に戻そうと心を砕き、
 同じビルで開業している知り合いの精神科医の女性のもとに通わせるようになる。
 アランも、”他人のこと”として、彼女に時折、相談をしているし、
 また、歯科医の患者としてアランを困らせる事件を起こした、
 夫との別れで傷ついた女性も、そこでセラピーを受けており、チャーリーとも出会う。


 正直、9.11に関係ある話だとしたら、私は観なかったかもしれない。
 でも、この映画は、けっして事件を社会派な感じで描いている映画ではないし、
 一人の人のかなしみや苦しみを、悲しんでいる部分だけを描いているよりも、
 わかりやすく?伝えてくれていると思う。
 ...ていうか、別に、9.11のことでなくていいのだ(だから前もって知らなくてよかった)。
 何の事件であっても、同じように、誰かを失った人について、の話なのだろう。

 
 アランのチャーリーに対する行動には、そんなに急がせるなよ、踏み込むなよ、
 人のことより自分のことをどうにかしろよ、とか思ってしまうが、
 私自身が、人に対して、引(退?)き過ぎ、踏み込まな過ぎな方なので、
 こういう人がいることも、必要だったりするんだよなあ、とも思う。
 
 個人的に、セラピーについて思ったこと。
 ひょっとして多くの人が観てそう思ったのかもしれないが、
 アランとチャーリー、二人のどちらとも、自分と重なっているように思う。
 人とうまくコミュニケートできない(ような気がするところ)、
 自分のことを開示できずに自分の楽しみにだけ浸って満足している(かのようなところ)...。
 
 セラピーの過程については、そんなに早く心を開く方がどうかと思ってしまう。
 (映画だから過程を端折っているのはわかっても。)
 というか、”自分のことを話して”、とセラピストから早急にせまるのはどうかと思う。
 もっと、自分から話す気になるのを待つべきなのではないか?、と思うが、 
 アメリカでは、セラピーを受ける=自分から話をすることに決めたはずだから、
 自分から話すべき、というものなのか?
 
 アダム・サンドラーは、マジな役を演っているのは初めて見たような気がするが、
 もう立場とか名誉とか仕事とか、どうでもよくなって、 
 だらしなくなってしまっている男の役を、すごく、らしく、演じていると思う。
 エキセントリック過ぎず(と思う、あれだけ暴れたりしても)、変に悲しい男過ぎずに。
 アラン役のドン・チードルも、こんな人いるよな?自分の近くにいるのか?と
 考えてしまったのだが、そういうわけでなく、なんとなく身近にいそうな人で、
 この二人だったから、大作っぽくおおげさにならなくて、よかったんじゃないかと思う。
 

 最後の方で、管理人のおばさんのさりげない行動や、老判事の言葉が、
 ああ、こういうふうな人たちもいるんだよなあ、とほっとさせてくれた。 
 チャーリーが乗っているスクーター?がすごく気持ちよさそうだった。

 そしてこの映画、B.スプリングスティーンとかWhoとかの音楽に思い入れのある人にとっては、
 もっとずっと切なく感じられたのではないかと思う。