しばらく桐野さんの作品を読み続けていたので
濃い?ものしか読めなくなってしまい、
本屋に行っても読みたい文庫が見つからない。
(単純に本の知識がないこともあるんですが、
 本や映画は、くわしく調べてでなく自分の手を出す範囲で、
 そのとき必要なものと出会えている感触があるのです。)
で、「グロテスク」再読。
やっぱり面白い。
佐藤さんを描くのに、本人を主人公にして語らせなかったところが
よいと思う。
でも、桐野さんのものはだいたいそうだけれど、
それぞれの人物の独白(手紙や日記)部分もあるところもいい。

ユリコの姉(名前が浮かばない)の、妹との確執は想像も実感もできないけれど、
病み方は私も理解できるところがある。
世界とディープに関れないところ、(とくに)男性に開けないところ、等々。
こんな自分は嫌だダメだと思っていつつも、それが直せないのは、
自分を堕落した状況においておきたい、おいてしまえ、
という意識があるためではないか、と感じる。
(”堕落ではなく解放”と考えるのは、否認だけではないと思う。)
今は部屋の汚さとか日常の人との関り方とかの部分くらいでしか
それを表さないとしても。
その根っこには、”自分を大切にできない”というかわいそうさもあると思うけれど、
”ほんとの自分はこんなものじゃないはずなのに”という傲慢さもあるのではないか。
あきらめているようでいても。


自分はどうしてEDになったり性的逸脱をしなかったかとか、
いろいろ以前から考えることはあったけれど、
物語ではあるけれど、あの最後を読んでいると、
ある意味世の中が見えてバランス感覚があったユリコの姉も、そして私も、
何かのきっかけや必要性が生まれれば、
ふたりと同じようになる?
と考えるのは、女としてこわいところがある。


などなど、いろいろ考えるところがある。
ときどき読み返して、新しいことに気づいたり、
同じことを考えて同じことに気づいたり、違うことにも気づいたり。



本や映画などの媒体は、そういうふうに何度も接することができるから
そういう関り方ができるけれど、
予想外の反応が相手によって起こされる人間関係は、
すぐに断ってしまって何度も接っすることはしないことにしてしまうー。
そういうところが、さらに自分を大人にしないのだと思うー。
すぐに変えることはできないけれど、
若いときにはそいういうことには気づけなかったのですよ。
このままどういうふうに死んでいくのか、最近は考えることがあります。

グロテスク