(長い。)
話をしたかった上司にやっと会えた。
ここ数日、どうしても今そんなに話したいか?という感じでいたのだが、
今朝、秘書の人から、「明日までの原稿ができてないので、また後日に延期で...」と言われて、
まあ仕方ないな...、とは思いつつも、がっかりしていた。
すると、また電話で、「原稿できたので、どうぞ」という連絡があって会えることに。ラッキー。

その人とは、仕事の話で会うときはしゃっきり話せるのだが、個人的なことを話すといつも泣いてしまう。
もう、そろそろ職員としてしっかり話したい、と思っていたが、今日は、これまでで一番普通に、
共通に読んでいる本のことなども話せてうれしかった。

今年中に話したかったことというのは、以前、一度ここに書いて、一日で削除してしまった以下の内容のこと。
話すと長くなるし、また泣きそうだったので、ブログのことを話し、印刷したものを読んでもらったのだが、
「(ブログを)もっとあからさまに書いたら?」とか、「踏み込んで書いていいんじゃない?」と言われたので
気を大きくして、削除したものを引っ張ってくることにした(単純)。
とても個人的で長いけれど(って、書いてることどれもとても個人的ですけど)。
以下、その内容。

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今年、ある知り合いの男性が、病気で、ほんとうに突然亡くなった。
その人は同じ職場の同僚でもあったが、それ以前に別の場で知り合った、ちょっと同士のような関係でもあった。
でも、部署も違っていたし、職場でもそれ以外でも、以前ほど話すことは少なくなっていた。
ただ、その人の部署の仕事がきびしかったこと、もともと身体がそれほど丈夫ではなかったこともあり、
仕事で体調を壊すことが多く、ときどき、私のところへ仕事の愚痴を言いに来ることがあった。
そんな中で、ほんとうに突然、倒れて亡くなってしまい、私としても、かなり呆然とし、
数日の間、その人のことを考え出すと、急に泣けてきたりすることがあった。
自分で思う以上に反応してしまうことが、自分でうまく把握できなかった。
同僚だったので、その後の儀式には、当然、職場の多くの人が参加していたが、
私は、行けなかった。行かなかった。いろいろ考えたし、かなり迷ったが、やはりどうしても行きたくなかった。
さすがに大人としての常識を疑われるので、家庭の事情にかこつけて行けないことにしたのだが。
その理由のひとつー。
その人と私は、ただの同僚ではなく同士のような友人だったのだから、もっと話を聞いてあげたり、
もっとそうなる前に友人として何かできたのではないか?、と、思い込みかとも思ったが、
それでもどうしてもそういう罪悪感のようなものが湧いてきてしまっていたこと。
ただ、その罪悪感そのものだけのために行けなかったのではない。
私は、彼から、奥さん(私も面識があった)と、あまり会話もなく、うまく行っていない、
というようなことを聞いていたのだが、これも思い込みなのかもしれないが、
私はその奥さんもとても感情の豊かな人であることを知っていたので、
こんなただの友人である私でさえ罪悪感をもってしまうのに、
そういう関係でいるときに夫が急に亡くなってしまった奥さんはどういう思いでいるか、と考えてしまい、
儀式の場で会ったら絶対に自分も動揺しひどく泣いてしまうことが想像できた。
そういう奥さんを見たくなかった。自分がそういうふうになる場に行くのもイヤだった。
それからもうひとつー。
私は、だいたいそういう儀式がもともとキライなのだが、今回も、そういう儀式の場に行くことに、
ほんとうに自分の気持ちがそぐわなかった。
自分では、その事実を感じる以上に動揺してしまい、何度も急によくわからない気持ちがこみ上げて泣いた。
自分にとって、そうして彼がもういないということを思い知り、自分なりに彼との別れとそれを惜しむ気持ちを感じた。
儀式に行って、自分が形式的な会話をしたり、人のそういう場での様子を目にして、
自分の悼む気持ちが薄まるようなことをしたくなかった。
そういう一見純粋そうな考えが子どもっぽいことをわかってもいたが、それでもどうしてもイヤだった。
実際、出かけた同僚たちが、その帰りに食事をして会話したという内容などを聞き、
自分もその場にいたらそれに合わせたかもしれないとも思ったが、行かなくてやはりよかった、と思った。
でも、やはり大人として、行くべきではなかったか、という思いがあり、懺悔したいような気持ちもある。
こういう気持ちや彼に対する気持ちを、彼のことも私のことも理解してくれている上司に、話しておきたいと思う。
その上司も、仕事で彼と近い関係のあるところにいたが行かなかった。その理由はわからないけれど。

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この話(私の書いたことでなく、その事実)に対する上司の反応は、私の予想外のものだったが、
上司の率直な反応をみせてもらえたことがうれしかったし(この人はいい人ぶらないのだ)、
人は、さまざまな、どんな感情をもってもいいのだ、というふうに思え、気持ちが自由になる感じがした。
そして、他には誰にも言えなかったことを話すことができて満足した。
この内容に関連して、共通して好きな作家であることがわかった宮部みゆきさんについても話し、
私は、「模倣犯」のテーマの一つは、残された者がもってしまう罪悪感ではないかと思う、と話した。
大きなテーマではないと思うが、ちょうど上の出来事があった頃に文庫版を読んでいたせいか、
登場人物のおじいちゃんと少年の罪悪感が、すごく自分にも響いて、そう感じていたことだったので。


そして、もう一つ。
家族についてずっと考えていたあることについて、今年、ある出来事からとても腑に落ちたことがあったので、
そのことも話した。それも、また書く気になったら書こうと思う。
あとは、結婚しないことや、人付き合いをあまりしたくないこと、アディクションのこと、これからのこと、
ちょっと世間話ふうなこと、などなど。
事前の仕事が早く終わり、予想より長く時間を取ってもらえた。
これでまたしばらく生きていける。おおげさ。
でも、この人に話したい、話せる、と思うことですでに癒される部分があり、
その欲望を、あたためて待つ、ということが、私を成長させてくれる(た)というのは事実だと思う。
別に、教祖とか、そういう人じゃないです。上司としては、”もう、独断的なんだから!”、とか、
”言ってることが前と違うじゃん!”とか、突っ込みどころもたくさんある人です。
まあ、親代わりかなー。
あーすっきり。